社交不安(対人恐怖)、「人が怖い」、人見知り、恥とは

社交不安障害(SAD)の人は、家族や親友でもなく、全く見知らぬ人でもない、という距離感の人を怖れます。たとえば、会社で一緒に働くけど名前と顔が一致する程度の人、学校ならば喋ったこともないクラスメイト、主婦ならば子どもの同級生の親でママ友とまでは言えない人など、「親密」と「赤の他人」の間の人である「中間距離」の人を怖れます。

中間距離の人々は、「親しく(仲良く)なれるかもしれないし、嫌われてしまう(自分に批判的・攻撃的になる)かもしれない」というあいまいな距離感があります。その距離感の人々にどう思われるかは私たちの仕事や生活の質を左右します。中間距離の人々は、社交不安(対人恐怖)があろうが無かろうが、誰にとってもつき合い方を迷う人たちです。

中間距離にある人たちの前でどのように振る舞い、どのように話すか迷い、時には場違いだったと気づきバツの悪い思いをしたり、恥ずかしいと思ったりしたことは誰にもあるでしょう。
たとえば、自分では友達程度だと思って接していた異性に対して、不意に好意の言葉や表情が出てしまって赤面する、という場面です。そんな場面では、自分が無意識に相手をとても好きだと思っても相手はそれほど自分を好きでもなさそうだった、との「ズレ」が意識されます。
そのような「間が悪い」と感じる時に感じる不安が社交不安なのです。社交不安は普通の日本語で言えば「恥かしい」とのいう感覚に近いものです。

ここでいう「間(ま)」について考えてみると、あらためて当たり前のことを言うようですが、人と人との「間」を意味します。
(「人間という漢字はね、『人と人との間』と書いてね、・・・」と、小学校の先生の訓話を受けた経験がある人も多いでしょう。)
この、「人と人との間」でいう「人」とは、「自分」でもあり「他人」でもある「人」、つまり自分にも他人にも同じように意識されている「私」を意味します。
私たちが、自分をそのような「私」と意識するのは、普通は10歳以降です。その意識を持つと同時に、他人もまた「私」意識を持つ人間なのだ、と気づくのです。このような意識(「自意識」とか「自我」とも言い換えられますが)を持って初めて、他人との距離、つまり「間」を意識するようになるのです。
この時期、思春期に社交不安障害を発症しやすいのです。

このように考えると、単に「よく知らない人が怖い」だけでは、社交不安(対人恐怖)とは言えません。そのような怖れならば赤ちゃんや幼児にもあります(いわゆる「人見知り」ですね)。
そのような「人見知り」、文字通りの「人が怖い」意識と社交不安とは違います。社交不安を感じている人は、自分と他人との距離感の意識、もっと正確に言えば、自分が感じる相手との心理的距離と、相手が自分に対して感じている心理的距離のズレ(先の赤面の例で言えば、自分が相手に抱く好意と相手が自分に持っているであろう好意の度合いのズレ)を強く感じているのです。それは「恥」を意識することでもあります。

同じく「人が怖い」という症状があっても、「間」や「ズレ」、「恥」といった意識・自覚が無いならば、発達障害(自閉症)や統合失調症、PTSDなど、別の診断を考えていくことになります。