お金を使いすぎる人、浪費する人とは――躁状態での浪費の意味

お金を使いすぎる人、後先考えずサラ金で借金してまで多額のお金を使ってしまう人につき、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。パチンコや競馬、宝くじなどで「一攫千金」を狙う人、ギャンブル依存の人を思い浮かべる人が多いかもしれません。

しかし、おおよそ30年前に精神科診療の教育を受けた当時の私は、浪費と聞けば躁うつ病の躁状態を第一に思い浮かべるものでした。

当時に、十万円百万円単位のお金を躊躇せず使ってしまう人は、気分が高揚して気が大きくなっている人がほとんどだったように思います。精神医学的には、気分高揚、多幸感、衝動性、行為心迫などといった躁状態を表す言葉で説明されますが、そんな専門用語で語らずとも、映画やドラマなどで、会社の課長さんなんかが、何か良いことが起きた時に「今日は俺の奢りだ、皆、いくらでも飲んでいけ!」みたいに勢いよく言うシーンを思い浮かべると良いかと思います。

そういう状況は、お祭り的な雰囲気です。多額のお金をパッと使う、というのは非日常的な時間に行われることです。そんな非日常な時間は、文化人類学的に言えば、「ハレ」「祝祭」「蕩尽」の時間であり、日常の時間である「ケ」「平常」「生産」の時間とは対極をなすものです。自分の大事なお金を惜しむことなくパッと使うことは、お祭り的であり、お祭り的であるということは、大枚をはたいて振る舞う個人だけではなく、みんながお祭り気分になれます。例えば、私が治療に関わらせていただいた、ある躁うつ病の患者さんは、躁状態になって気分が高揚すると周囲にも明るくなって欲しくなり、皆に何かとご馳走を振る舞ったりプレゼントを配ったりしたのですが、相手の人たちのノリが悪いと感じると疎外感を感じて、飛行機に乗って沖縄の島に渡りました。その道中でもキャビンアテンダントさんや他の搭乗客にお花やお菓子を配っていました。

そういう患者さんは、「一人祭り」をしているとも言えます。一人だけテンションが高くて高笑いして、周りの反応が冷めていても、彼の目に入っていません。

しかし、そんな躁状態で大盤振る舞いをする方を、「一人祭り」と一笑に付すだけでは、お金を使う、という人間的な行為の本質がわかっていないと言えます。

人類学の中でも、経済人類学の分野の教えによれば、人間がお金を使うのは、贅沢をする喜びや自己顕示欲によるものではなく、人が人とつながりたい、共同体が別の共同体とつながりたい、という、社会的な欲求に基づくものなのです。もっと言えば、人が他の人とのつながりを希求して経済活動を行なう時は、自分の損得や命を顧みずに、時には自己犠牲的な、命がけな行動を厭わないものであり、これは人間の本能的な行いとも言えます。例えば、マリノフスキ、モース、ポランニーといった人類学者が注目した、パプアニューギニアの「クラ(交易)」では、自給自足している共同体が、あえて危険な海を渡って交易をする行為の意味が分析されています。クラによる交易では、衣食住を含めた生活全般において、何の不足もない地域共同体が、あえて改めて貿易用の船を作って海を渡って物や人のやり取りを行います。そこには、現在の商社のような貿易商人の欲望、つまり、国境を超えて物を移動させることによって発生する利益を求める、という動機は全くありません。ただ単に、よその国の人たちと交流したい、という純粋な欲望があるだけです。

そのクラには、人間がお金を使う、経済活動をすることの本質が表れています。たとえ命の危険があろうとも、交易によって物的金銭的な損害が発生しようとも、他の共同体との「つながり」を優先するのは、人間社会の根本的な欲求であり、その欲求は個人や個別の共同体の生存欲求を凌ぎさえもする、根源的な欲求なのです。人は、「パンのみに生きる」ことは難しく、「つながり」「広がり」を求める社会的な生き物だと、人類学は教えます。

こう考えてみると、先ほどの躁うつ病の患者さんは、多額のお金を使って浪費しましたが、それは他人とのつながり、連帯感を希求しての行為だと思えるのです。彼のような人は、自分だけお金を儲ければ良し、とはせず、皆で一緒に歓喜の時を迎えたい、喜びを分かち合いたい、と思っているのです。彼は決して「一人祭り」を求めていたのではなく、「みんな一緒に」お祭り気分になりたい、と思っているのです。ただ、躁状態の人のテンションには、周囲がついていけないので、結果として「一人祭り」になってしまうのです。

躁状態での浪費、と決めつける訳ではありませんが、後先のことを考えずにお金をパッと使ってしまう人の例としては、野口英世が浮びます。彼の伝記を読むと、彼を留学させるための資金を篤志家らが英世に提供すると、盛大な飲み会を開いて皆に奢ってしまい、結果、留学に必要なお金に困ってしまう、という奇特なエピソードが出てきます(そういうことが複数回あったように記憶します)。勤勉、努力家で野心家である一方、自分だけが良ければ、という独善的だけにはならない振る舞いに、躁うつ気質を感じさせます(当時は近代日本であり、地縁血縁のつながりは切っても切れないもの、という風潮があった時代背景も考慮すべきではあるでしょう。夏目漱石もたくさんの親類を経済的に養っていたという話もあります。)。

少し長い話になりましたが、躁状態での浪費行為には、人としての根源的な欲求、他人とつながって集団のつながりを強くしようとする動機があり、浪費という行為には破滅的な意味ではなく、集団の連帯を作ってそれを強める力があると思います。そういう意味で、浪費とはとても人間的な行為だと思いますし、躁うつ病の人が、時には集団をまとめて調和させる力を持っていることを表しており、彼らの人間的な魅力を感じさせます。

ただ、実際に多額のお金を浪費してしまう躁状態の患者さんに対し、それをそのまま良しとしていては、多額の借金を抱えたり破産したりしてしまいます。臨床的なアドバイスを差し上げるとすれば、同じくお金を使うなら、他人との親密さを深めたり、新たな人とのつながりを得たり、何か創造的なことにお金を使うことを考えるようにと、勧めたいところです。また、躁うつ病の治療全般にも共通しますが、気分の波がある彼らに寄り添って、「このくらいの行動ならば良い」と助言してくれるような、マラソンのペースメーカー的な人がいて、金銭の使い方についてもアドバイスをいただけるのがベストでは、と思っています。

以上、躁状態での浪費行動の意味合いについて考えてみました。ただ、あくまで以上の話は浪費行動の中の一部についての説明です。この21世紀の現在では、全く違った意味合いの浪費行動があります。それについては稿を改めて書きたいと思っています。