精神医学では、「人格障害(パーソナリティ障害)」という「障害」があるとされています。アメリカの精神疾患分類DSMにも、躁うつ病やパニック障害などと並んで、人格障害という「疾病」もしくは「障害」があります。
しかし、医者の診断として、「人格(パーソナリティ)が病む」とか人格が「障害」である、と診断するのは不適当なことだと、たびたび指摘されています。ある人の人格(性格)が「障害」されている、と言うのは、「人格否定」にもなりかねません。実際、人格障害と診断されてひどく傷ついた、という患者さんも珍しくありません。
そもそも、医学の診断とは、医学的治療の対象になるか、医療や福祉的な処遇の対象になるものに付けるべきものでしょう。しかし、こと人格障害の診断となると、そんな視点は無く、「分類のための分類」になっている様相です。たとえば、人格障害の分類の中でも、「反社会性人格障害」となると、以下のような診断基準になっており、これは警察や刑務所で処遇すべきものであり、一般の医療の対象から逸脱していることがおわかりになると思います。
<反社会性人格障害の診断基準(一部を抜粋)>
1.法律にかなって規範に従うことができない、逮捕に値する行動を繰り返す。
2.自己の利益のために人をだます。
3.衝動的で計画性がない。
4.喧嘩や暴力を伴う易刺激性、攻撃性。
5.自分や他人の安全を考えることができない。無謀。
6.責任感がない。
7.良心の呵責がない。他人を傷つけてもいじめても物を盗んでも気にしない。責められれば正当化する。
(反社会性人格障害の診断にあたってはこれらの特徴や行為が全てが必要ではありません)
このように、反社会性人格障害と診断せずとも、私たちの周囲には犯罪、虐待やハラスメントを繰り返し行う困った人がいるのは事実です。私のように、市中の精神科・心療内科クリニックとしてたくさんの患者さんを診る仕事をしていますと、反社会性人格障害に当てはまるような人が患者さんとして自ら受診することは滅多にありませんが、反社会性人格障害もしくはその傾向のある人に虐待されたりハラスメントを受けたりした被害者がパニック障害やPTSDの症状を呈して受診されることは、しばしばあります。私はそんな被害者の治療をしながらも、たびたび加害者の存在を意識せざるを得ません。そんな加害者は、必ずしも反社会性人格障害と診断されるほどの違法行為を犯しているわけではないものの、自己中心的で傍若無人な行いをしています。家庭では家族にモラハラや暴力を振るい、会社では暴力や暴言を伴ったパワハラ行為を行い、地域社会ではひどいクレーマーやストーカーとして、たくさんの被害者を生み出している人間がいます。
時には、そんな加害者が患者さんの家族や上司として、私たちの前に現れることがあります。彼らは、一応表面上は社会適応しており、自分自身は何も困っていません。しかし、自分の憂さ晴らしとして家族にDVやモラハラ行為を行い、部下にパワハラを行ない、お店では些細なことでクレームをつけて店員や店長を困らせているのです。そういう迷惑行為をする人の中には加害者として反省したり自責感を持っている人もいますが、全面的に自分が正しいと思っているばかりの人も多くいます。そういう人は、先に挙げた反社会性人格障害の診断基準の中にあった、「良心の欠如」があり、被害者の痛みが全くわかっていないのです。そんな彼らには、私たちが被害者の気持ちを代弁・説明しても全く通じません。
そんな加害者の心理をどのように理解して対処すれば良いのか。その問いに対して簡単に答えることは難しいところですが、まずは彼らの現状を理解することが必要です。その点で私は最近、『サイコパスの真実』(原田隆之、ちくま新書)を読み、参考になり、臨床の実感として同意できるところが多くあったので、引用させていただきたいと思います。
「サイコパス」と聞くと、映画『羊たちの沈黙』に出てくる猟奇的殺人者のハンニバル・レクターのような人を想像する人も多いと思います。そのイメージは、凶悪で残忍な連続殺人の犯人、知能は高いが冷淡、人の痛みに対する共感など全く無く、むしろ他人を苦しめることにこそ快楽を感じる、といったものでしょうか。
しかし、前掲著の中で原田は、そのような典型的なケース、例えば神戸連続児童殺傷事件や池田小学校での無差別殺人事件の犯人たちはもちろんサイコパスの典型例だとしながらも、そのような反社会性や犯罪の特徴が目立たないサイコパスもいる、とします。たとえば、アップル社の創業者であるスティーブ・ジョブズもサイコパスだとします。ジョブズは、若い頃に妊娠させた彼女をすぐに捨て、その子どもを認知もせず、億万長者になった時には、創業時に同じ屋根の下に住み苦楽をともにした仲間をあっさり切り捨てて会社の株を一株さえも与えなかった、などなど、あまりにも冷淡で自己中心的な行動が多々あり、また、非常な短気で暴君であったそうです。ジョブズのように、サイコパスの特徴を持ちながらも犯罪行為は行わず、社会的には成功した人を原田は、「成功したサイコパス」、「マイルド・サイコパス」だと呼んでいます。原田のような考え方をする研究者によると、一般に思われている以上にサイコパスは多く、なんと人口の1%くらいがサイコパスだと言います。
サイコパスの最大の特徴は何か。原田によると、やはり「良心の欠如」とされます。サイコパスには他人の痛みに対する共感が全く無く、自己中心的な行動をして相手を苦しめても快楽こそ感じさえすれ、罪悪感など微塵も感じないのがサイコパスの特徴なのです。
では、そんなサイコパスに対して、被害者の痛みを理解できるように、心理教育を行うとどうなるのか。刑務所にて、犯罪を犯したサイコパスたちと、犯罪は犯したけれどもサイコパスではない受刑者たちに対し、被害者の苦痛や心理について教育を行うと、後者は刑務所を出所後に再犯率が下がった(被害者の苦痛がわかって更正した)のに対して、サイコパスの方は逆に再犯率が上がった、というデータがあるそうです。その理由としては、サイコパスが被害者の心理を理解した上でそれを悪用するようになったから、と考えられているのです。
この点は、私も臨床の実感として同意します。私が精神科病棟にて入院患者を治療する立場にあった時、サイコパスもしくはマイルド・サイコパスのような人が時々入院してきました(ここであらためて、99%の精神科入院患者さんは病気であっても人格障害でもなくサイコパスでもない善良な人たちであることを強調しておきますが)。彼らサイコパスが病棟内で他の患者さんや看護師らを痛めつける(女性の髪の毛に火を点けて燃やすとか、幻覚妄想状態で意思疎通困難な患者さんに対して看護者が気づきにくい部分を何カ所も切りつけるなど)行為を行った時、彼らの良心に訴えかけるようにカウンセリングしても、全く無駄であるどころか、彼らは問題行為に私たち医療者がどのように対処するかを学習していき、暴力・残虐行為は悪質化していくばかりだったのです(池田小学校事件の犯人は、事件前に精神科に入退院を繰り返しています。自分が触法行為を犯した時に司法や医療がどう対応するかを学習していったようです。)。医療者がサイコパスの「良心に訴えかける」スタンスでは、まったくどうしようもなかったのです。
当院を開院した後も時々サイコパスが受診してきたことがあります。しかし、彼らの受診目的は邪悪なもので、反社会的な行動をして懲罰を受けそうになった時や、家族らにDVを振るい関係が悪くなった時などに、精神疾患として責任を回避しようとして受診するのです(会社の金を横領したり、部下を自殺に追い込んだ後に受診して精神疾患の診断書を要求してきたケースを思い出します。)。そんな身勝手な彼らに対して、私は「治療」する手立てを持ち合わせていません。
サイコパスを理解するに当たって大事なのは、他者の気持ちに共感する、とはどういうことか、というポイントです。私たちが他人の気持ちに共感する時、二種類の共感があります。一つは「認知的共感性」です。これは、相手の言動や行動から相手の気持ちを推察する「共感」です。この共感は、頭で考えて理屈で共感するだけであり、心はついてきていません。つまり、理屈ではわかったけれども、同情して涙が出てくるようなことなどは一切無い「共感」なのです。これは例えば、万有引力の法則を理屈として理解することと同じような「理解としての共感」であり、それは見かけ上の「共感」なのです。
もう一つの共感としては、「情緒的共感性」があります。こちらの共感は「相手の身になる」共感であり、他人の体験を見聞きして泣けてきたり怒ったりする共感です。私たちが小説や映画を見て泣いたりハラハラしたりする体験は「情緒的共感」の働きによるものなのです。
このように説明すると、一般には「共感」という言葉で理解されているのは「情緒的共感」であり、こちらの方が本当の共感だと思う方が大半だと思います。しかし、サイコパスにおいては、この情緒的共感性の方が欠如しているため、自分が傷つけている相手の痛みが全くわからないのです。ただ、サイコパスは「認知的共感」で相手の心理を理解して、推測することができるのです。特に、知能が高いサイコパスになれば、情緒的共感をしていないのにしているようなフリができるので、周囲は騙されてしまいます。
ここは、臨床上大変重要なポイントです。サイコパスに被害を受けて私たちの所を受診する被害者は、パワハラやDVの加害者であるサイコパスに対し、自分の気持ちや苦痛を細かに伝えれば「いつかはわかってもらえる」と思っていることがあります。それは、「相手も人の子だからいつかはわかってもらえる」との切ない期待なのですが、サイコパスには全く伝わりません。サイコパスに対して自分の気持ちや考えを伝えても彼らの「認知的共感」だけが得られるだけで、それをかえって悪用されるばかりで、事態は悪化するばかりになります。ハラスメントやストーカー行為はより巧妙になり悪質化してしまいます。
サイコパスを相手にした時は、「情緒的共感」を期待してはいけません。普通の人にとっては、相手が人間として当たり前に持っていると思う「情緒的共感性」を持ち合わせていないのがサイコパスなのです。
しかし、普通の感性を持っている被害者は、情緒的共感性を持っていないサイコパスのような人間がいると想定しておらず、サイコパスの心理を想像できないので悩みます。「なぜ、気持ちがわかってもらえないのだろう」と悩み、「情緒的共感」を求めて苦悩し続けるのですが、サイコパスには気持ちは伝わらないのです。
さらにサイコパスが厄介なのは、彼らは自分の性格に悩むことも反省することもなく、むしろ自信家であることが多いので、不安障害やうつ病などの気弱な患者さんには魅力的に映ることです。気弱な人はサイコパスに「守ってもらえる」と誤解し、手酷い扱いを受けても彼らについていこうとしてしまいます。被害者は自ら求めてサイコパスに付いていっているように見えるので、マゾヒストとみなされたり、「自己責任」とされてしまったりします。そんな被害者に対しては、まずサイコパスと距離を取り(パワハラを受けている会社員なら休職させたり、DVを受けている主婦ならば女性センターなどに被害者保護をしてもらう)、被害者の安全を確保した上で、サイコパスの心理について理解するようにお話ししていきます。
現代において、サイコパス、マイルド・サイコパスは増加してきているように私は思います。現代社会がサイコパスにとって生きやすい環境になったのか、現代社会が全体として「サイコパス化」しているか、など、いろいろ考えることはありますが、私は臨床医ですので、被害者の救済について考えることに追われる日々です。