不眠症のスピリチュアルケア、『眠られぬ夜のために』(ヒルティ)

不眠症は病気である、と一般に言われています。たしかにそうです。日頃、私たち医師は患者さんの不眠を治すことに腐心しています。いかにして患者さんがよく眠って健康を回復するように援助するかは、私たち精神科・心療内科医の腕の見せ所です。

多くの不眠は心や体の病気か、病気の手前のサインであり、睡眠改善のための工夫や治療をすべきです。また、統合失調症や躁うつ病、うつ病といった精神疾患を治す際には、睡眠の改善は大きな治療目標になります。

そうした医学的な視点から、「眠れない」と聞けば反射的に睡眠薬や抗うつ薬を処方する医師が増えているように思います。でもそれは、ある面で短絡的な治療です。

医者ではない一般の方でも少し考えてみればわかるように、少々不眠でも元気な場合は結構あります。若い人は一晩の徹夜でも翌日元気にしていますし、仕事や恋愛などがうまく行っている時には気分が高揚して一時的に睡眠時間が少なくなる時があります。

そのような健康的な不眠を訴えて私たちのところに来られる人はほとんどいませんが、それ以外の不眠症の中にも、安易に薬で治療すべきではないと思われる不眠症があります。

それは例えばこんなケースです。犯罪行為や不貞行為など「うしろめたい」ことをしている時や、結婚や就職など人生の大きな選択や決断の前など、その人がその時に自己の責任や課題としてよく考えるべき大事な問題に直面している時に、眠られないことがあります。そんな時の一時的な不眠ですぐに私たちのところを受診される人は少ないのですが、いくらかいます。

たとえば、会社で横領したことがバレそうになった、酒気帯び運転で人身事故を起こした、家族にDVを振るってしまった、浮気した、隠れて借金した、などの出来事をきっかけにして眠れなくなった、と訴える患者さんがたまにいます。そんな彼らに対し、薬を出して眠られるようにしてあげることは健康を守る立場としては必要なことですが、それによって彼らが自分の行為を振り返ったり反省したりせずに、ただ「よく眠る」ことだけを求めるだけの姿勢でいる場合、私は彼らが「問題に目を閉ざす」ことのお手伝いをしているだけで、良くないことをしているように思えるのです。

そんな彼らの不眠状態は、彼らに「考える」という課題を求めているのではないか、と思うのです。彼らの不眠は、彼らの人生についてよく考え、その人生を豊かにする契機になる、と捉える必要があると思うのです。言い換えれば、ある種の不眠症の治療では、その人が自身の人生の課題をよく考えることが必要であり、私たち治療者は彼らが自分の人生を考える際の話し相手になる必要がある、と思うのです。具体的に言えば、悪事をはたらいたがために眠れなくなっている人の場合、彼が過去の行為をどのように反省し、今後どのように生きていくのが良いのか、と考えるための援助を私たち治療者がする必要があると思うのです。

このように考えると、不眠症とは、よく眠られるか眠られないか、という単なる生理学的・医学的な問題ではなく、私たちの人生の問題に関わる問題でもあると思うのです。不眠という現象を通して、私たちは倫理的・スピリチュアルな次元の問題に触れるのです。

そういう立場から不眠について考えているのが、『眠られぬ夜のために』(ヒルティ著、岩波文庫)です。

この本はいわゆる「哲学書」として、敬遠されそうですが、読み始めてみると、意外に実践的であり、哲学に馴染みがない方にも興味深く読みやすいことがわかります。たとえば、こんな話から始まります。
「どうして不眠が起るのか、一概にはいえない。不眠はたいてい病気や、心配事や、不安な物思いから起る。だが、ときには、休息のとりすぎ、安逸な暮し方、いろいろな不節制、あるいは不適当な時間の昼寝などから起ることもある。・・・ただ経験上わかっているのは、適度な眠りが、健康を保つために必要であり、病気、とくに神経系統の病気の際には、一番よい、欠くことのできない治療手段であること、また、睡眠は夜間、それも夜半前から始めて、六時間ないし八時間、中断せずに続けて眠るのが最も有効であること・・・」
「不眠を避けるのに大切なことは、まず第一に、興奮や不安のたねになるような考えごとを抱いてではなく、むしろなるべく静かな、よい思想と心の平安をもって、夜の休息に入ることである。」
「人工的な睡眠剤は、すべて例外なく、多少とも有害である。やむをえない場合だけ、医師と相談した上で用いるがよい。われわれはアルコール飲料もそれに加えたい。他方、あまり満腹の場合ばかりでなく、あまりに空腹の場合もまた、往々眠られぬ直接の原因となる。どうしても眠れないときは、灯りをつけ、しばらく起きており、できればなにか消化しやすい軽い食物をとり、少し落ちついてからふたたび横になるのが、一般にずっとよい方法である。」(『眠られぬ夜のために』第一部緒言)
ここまでは、常識的なことであり、多くの方が同意されることでしょう。

ヒルティはしかし、私たちが単によく眠られて元気であり、「苦労をしない」という意味での「楽」を求めるばかりでは健康であるとは言えないとします。
「健康のためになによりも悪いのは、ただ享楽を追う生活の傾向であり、単に頭のなかでそれを考えるだけでもよくない。とくに、ある一定の方向に限られた享楽の生活には、その報いとして必ず精神と肉体の呪いがやってくる。このような正しい見解からすっかり遠ざかった現代の人びとは、みずからの肉体と精神とをもって痛切にこのことを経験せざるをえないだろう。」
「安らかな眠りを得るのに最上の道は、実にしばしば、善良な行為、確固たる良い計画、ざんげ、改心、他人との和解、将来の生活のための明瞭なよい決意などである。これらはとりわけ神経をしずめてくれるもので、どんな場合にも、怒りや憎しみ、嫉妬や心配などの思いにかられるよりも、眠るのによろしい。そのようないらだたしい思いは、なんの益もなく、特に夜の暗闇のなかでは最もよくない。」(『眠られぬ夜のために』第一部緒言)
とします。

つまりヒルティは、私たちが「善く生きる」ことによってよく眠られるし、よく眠られて健全な体を維持できれば「善く生きる」ことができる、と説くのです。

そうした倫理的な観点には目もくれず、単に「眠られない」→「睡眠薬」とする医者についてヒルティは、「唯物主義」として強く非難しています。
「一部の医師に見られる全くの唯物主義、さらにまた、看護にあたる人たちの一部にある真の内的使命感と精神的適性との欠乏が、今日の医学の技術的進歩をはばむ大きな障害となっている。」(『眠られぬ夜のために』第一部緒言)

100年も前に書かれたこの本を読むとき、はたして今の医学、中でも精神医学は進歩しているのだろうか、いやむしろ、唯物論まっしぐらで大切な視点を見失っているのではないか、と思います。現在、私たち精神医学・心療内科学の分野では何かと「スピリチュアルケア」が叫ばれていますが、それは現在の唯物論的な医学にとってつけた単なる空虚なスローガンに終わっていないかと、思うことが多いのです。ヒルティは「われわれはいま、神学と医学の、とりわけ精神病学と神経医学の、大きな過渡期、発展期に際会している」と書いていますが、いまだ私たちは過渡期のままではないか、と思えます。同時に、そう批判する私の治療も同じことになっていないか、と反省させられます。

私たち人間は、よく眠られておいしく食べられて動いても体が軽い、という体としての健康が満たされれば心も健康であると言えない、健全な心に健康な体は必要ではあるが、体が健康であれば必ず心が健全であるとは言えない、そのようにヒルティは説きます。心とはその本質上スピリチュアルな次元の満足を求めるものであり、肉体的な享楽を得ても心の満足は得られない、とヒルティは説いていきます。

この『眠られぬ夜のために』という本は、哲学的な断章が日記形式に書かれ、どこからでも読みやすくなっています。スピリチュアルな次元で悩んでいる方は、必ず心に響く一節を見つけることと思います。