心気症とその治療

<心気症とは>

心気症(心気神経症)の患者さんは、実際には病気でもないのに「癌にかかっているかもしれない」「AIDSに感染したかもしれない」「死ぬかもしれない」などとひどく怖れ、やたらと医者にかかり、CTやMRIなどの画像検査、胃や腸の内視鏡検査、腫瘍マーカーなどの血液検査などを受けたりします。同じ部位、例えば乳房につき、少しでもしこりなどの変化を感じるとその都度マンモグラフィーなどの検査を受けたりします。CT検査を1年に10回以上受ける人もいます。検査を受けると一時的には安心するのですが、まもなく(早ければ数日程度)同じ不安(「乳癌かも?」)が強まり、別の医者にかかって同じ検査を受けたり、人間ドックを受けたりします(頭から足先まで全身を全ての異常の有無につき調べることができる、と思われがちな人間ドックは、心気症の患者さんが好んで受けたがる検査です。)

心気症は、ありふれた症状です。一時的に「癌かも?」と不安になる程度の方も含めれば、相当な数の人(一生涯を通して心気症的不安を持ったことが全く無い人はかなりの少数派になるかもしれません)がいると思います。

病院で勤める医師や看護師などの医療従事者ならば、心気症の患者さんには「慣れっこ」になっていて、患者さんが検査を求めれば必要無いとわかっていながらも検査して「異常なしです」と伝えて安心させてあげるのが通常です。しかし、同じ患者さんが何度も検査を求めてくると辟易してきて、時には冷たくあしらうこともあります。医療者の側がそのような冷たい態度を取ると患者さんの方の不安は強まり、心気症の症状が悪化することもあります。一方で医療者の方は「こんなにたくさん検査したのにどうして安心しないんだ」「他の本当の病気の患者さんの治療で忙しいのに」などと思って心気症の患者さんにネガティブな感情を抱き、最終的には「うちの科の病気じゃないから心療内科か精神科にかかって!」と突き放します。

<心気症の治療>

そのような経過で心気症の患者さんが心療内科や精神科にかかることが多いのですが、治療を引き受ける側の心療内科医や精神科医は実際にはどのように対応しているのでしょうか。

よくある精神科医師の対応は、心気症の患者さんの根本症状は「不安」と考えて、とにかく患者さんの不安を軽減するように努めます。「大丈夫」「心配無い」などと伝え続け、患者さんの不安が十分に軽減するまで向精神薬を増量したり、それでも患者さんが心気症的な不安を強く訴えるならば安易に医学的検査(血液検査やCT検査など)を施行したりします。心気症の患者さんにとって、「優しい治療」です。

しかし、そのような「優しい治療」では、心気症の治療がうまくいかないことが多いのです。

考えてみれば、心気症の患者さんの不安、すなわち「自分が癌にかかっているかもしれない」とか「死に至る大病になるかもしれない」という不安は、誰にとっても当てはまる、現実的な不安でもあります。生きている限り、たとえ子どもであっても、いきなり小児癌や白血病にかかるリスクはあります。そんな現実を無視して、心気症的な不安(死ぬことへの恐怖)をゼロにすることを目指す「優しい治療」では、この世の誰もが避けることができない「死」について考えないという、非現実な生き方を目指すことになり、それはかえって結果的に患者さんの心を弱くしてしまうのです。

たとえば、心気症と共通した症状である、強迫性障害の疾病恐怖では、「死」を連想させる「4」の数字を異常なまでに忌避して口にしたり書いたりするのを避けることがありますが、そういう迷信的な行為(認知行動療法の観点からは「回避行動」と呼びます)を続けていると、恐怖の対象(この場合は「4」という数字)に対する恐怖が強まるばかりになります。恐怖症一般に言えることですが、恐怖対象を避ければ避けるほど恐怖はより強くなっていくものです。背後にお化けがいる、と思って怖がって振り返ることをしないと、更に怖くなってくる心理と同じです。

ですから、心気症の治療においては、「病気」「死」を過度に怖れることなく、そうした怖れを持ちながらも元気に生活していくこと、自らの生き甲斐を大切にして生きていける状態を目指します。西洋で古来より「メメントモリ(死を忘れるな)」と戒められてきた教訓に従って生きるような姿勢を目指すのです。

では、心気症の患者さんの現実の治療は、どう進めていくのが良いのでしょうか。

まず、患者さんの心気症的な不安は、ある面では正常な感情である、と認めます。共感するのです。患者さんは、それまでの内科や外科などの診療で、厄介者扱いされたり見捨てられたりしています。心気症の不安を否定されると、見捨てられ感が強まり、それがさらに不安を強めて心気症を悪化させる、という悪循環に陥ります。だから私たち心療内科医は、まず患者さんの不安を受け止めて共感します。

そうした共感によって治療関係ができた後、心気症の患者さんの病状について説明していきます。たとえば、身体の違和感、たとえば喉のつまり感を感じた時に「食道癌?」と患者さんが考えること自体は肯定します。実際、時にはそういう心配が現実になる(癌が見つかった)こともあります。ただ、健康な身体でも、常に細かな変化があるものでして、たとえば喉のつまり感が起きたり、動悸や不整脈が起きたり、体が火照ったり、軽いめまい感が起きる、ことなどあり、その多くは正常な、単なる一時的な自律神経のゆらぎに過ぎません(例えば、24時間心電図を撮ってみると、健康の人のほとんどで一時的な不整脈が見られます)。そうした体の正常な変化に過敏に反応して大病かと心配してしまう状態が心気症なのです。
つまり、心気症の患者さんは健康な体の変化、自律神経の正常なゆらぎについて過敏になっていることを説明します。治療の初めに、そういう病状を説明するのが通常です。

ただ、あまりにも患者さんの不安が強すぎる場合、そんな医学的な説明では全く安心できないないこともあり、そういう時は抗うつ薬や抗不安薬などの向精神薬を投与して、心の平静を取り戻し、自分の体の変化と冷静に向き合えるようにすることもあります。また、実際に自律神経失調症の症状が強く出ている場合(更年期障害のホットフラッシュ、起立性調節障害、多汗症など)、自律神経が乱れると心気症的な不安が生じる、という悪循環に陥っています。このような場合、自律神経の乱れを調整するのは漢方薬の得意なところですので、漢方薬を投与して体の方から治療することもあります。

また、この段階では、たとえば風邪をひいたり、軽いめまい症が起きたり、皮膚病にかかったりすると、心気症の患者さんは「癌では?」などと不安になりがちです。この時は、治療している心療内科医の力が試される時です。というのは、患者さんが訴える様々な身体的変化について、大病のサインを示している可能性が高いものと低いものを鑑別して、その都度医学的精査を必要とするのか経過観察で良いのかを判別する診断能力(「症候学」「診断学」についての広い知識と実践応用能力)が私たちに求められるのです。心療内科医や精神科医の中には「心しか診ない」人も多く、ここで安易に内科や外科などの医者に紹介してしまう人も結構いるのですが、それでは治療が振り出しに戻るだけです。この段階では、患者さんの信頼を受けている主治医である心療内科医が、なぜ経過観察で良いのかを患者さんに対して医学的根拠をもって説得力を持って説明できる能力が必要です。

そのように治療をしてきて、心気症の患者さんの強い不安や体の症状がある程度緩和した後はどうしたら良いでしょうか?

体の変化にこだわる心気症の人に対して逆説的な言い方ですが、結構多くの心気症の患者さんは、強迫性障害の患者さんと同じように、理屈で物を考える傾向が強く、自分の体についても理屈で考えがちで、実は体の感覚について鈍い傾向があります。一般に私たちは、少し早歩きすれば心臓は速く脈を打つし、汗も出ます。でも、運動を止めれば徐々に安静時の状態に戻っていくものです。血圧や体温の細かな変化をひどく気にする心気症の人もいますが、私たちは朝昼夕の活動中と睡眠時では血圧や体温は上下するのが普通ですし、少し風邪を引きかけた時に一時的に体温が上がることによって病原菌への抵抗力が上がります。心気症の患者さんは、そんな正常な体の変化と病的な変化の区別がつきません。もしくは、自分の体の変化をひどく怖れるので、運動して汗をかくことを避けたりします。そうすると、少し動いたり驚いたりした時の体の変化に対して、「何かの病気のサインでは?」と気にして不安になるのです。

治療のこの段階では、患者さん自身にも努力が必要です。心気症を発症してから控えていた運動を始めたり、多少暑い屋外にも短時間でも出てみる、火照るのが怖くて控えていたお風呂にも入ってみる、など、いろいろと活動していただく必要があります。そういう活動をし始めた当初は不安がまだ強いので、血圧が大きく変動したり、発汗量が人より多かったりするものですが、活動を継続していくうちに落ち着いてくるものです。若い頃に運動した時は疲れたけど、休憩すれば徐々に落ちついてきた、あの頃の正常な身体感覚を取り戻します。

この段階になれば、心気症はほぼ治ったも同然ですが、死についての恐怖が強く残っている人もいます。こうなると、心気症というより、死に対する恐怖症と言って良いでしょう。こうした方には、死への恐怖は誰もが持っているものであり、死の恐怖自体を消すような治療は無いことを話したりします(時には瞑想を勧めます)。

そんな話を進めていくと、時には自然に患者さんの方から、心気症を発症した時は仕事のやり甲斐を見失った頃であったとか、夫婦関係が悪化して将来の不安が強まっていたといった話が出てくることがあります。その上、「自分は死の恐怖を考えるばかりになって現実の問題から目を背けていた、自分はこれからの人生の目標や生き甲斐を考えることを避けていた、これからは、いつ死が訪れるかはわからないけど、それまでは一生懸命働いて人生を楽しみたい」といった洞察が語られることもあります。ここまで来ると、患者さんは一つの悟りを得た状態となっており、一般に健康とされている人よりも精神的にたくましくなっている印象を受けます。当然ながら治療は終了となります。