睡眠薬や抗不安薬を一度飲み始めると「止められない」「癖になる」「依存する」「薬漬けになる」と恐れる人がたくさんいます。精神科や心療内科で治療は受けたいけれど、薬による治療は避けたい、という人が多くいます。
そのように、向精神薬への依存性を心配される人ほど、「薬漬け」「薬物依存」になることはありません。そういう心配をされる方は慎重なので、やたらと薬を飲むことはまずありません。そういう方が、薬物依存についての問題意識がある精神科医や心療内科医にかかっているならば、なおさら心配は無用です。
その一方で現在、向精神薬、中でも抗不安薬・睡眠薬と呼ばれるベンゾジアゼピン系薬物(以下、ベンゾジアゼピンと略します)について、その依存症が問題視されています。この春、ベンゾジアゼピンの作用副作用についての「添付文書」(医師や薬剤師に向けての薬剤説明文書のことです)が改訂されました。ベンゾジアゼピンを常用していると薬物への依存が生じることがあるとの警告が追記されたのです。
ベンゾジアゼピンは、50年前も前から世界中で使われている薬物です。その依存性については、私が医師になった頃、25年前でも既に注意されていましたので、今さらその依存性について注意喚起されるのには、不思議な感じがします。特に最近になってベンゾジアゼピン系薬物について新たな医学的発見があったわけではありませんので、なおさら不思議なのです。
ただ、この現在にあってこのような注意喚起がなされるのは、意味があることだと思います。
それは、次のようなケースがあってのことだと思います。
1)ベンゾジアゼピンなどの向精神薬を服用した時の「快感」を求める人がいる:ベンゾジアゼピンは、大麻、覚醒剤やアルコールほどではないものの、その服用により「楽」「気持ちいい」感覚をもたらします。私たちがこの世で生きる際には誰でもいくらかの不安や心配があるものですが、そんな不安のすべてが払拭された夢見心地の世界を、服薬によって求める人がいます。そういう人がベンゾジアゼピンを多量に服用するのです。ブッダが言うように、生老病死は私たち人間の苦悩の源泉ですが、そこからの解脱を薬に求めると薬物依存になるのです。こういうタイプの人は昔からいて、古典的な薬物依存症と言えそうです。
2)ベンゾジアゼピンを飲んでも快感を感じることはないけど、仕事をするに当たって大変な緊張を強いられるために仕方なく服薬しているケース:このハイパー資本主義社会の中では、「いつも元気で笑顔」でいることが求められています。「モンスター」「クレーマー」な客を相手に接客しながらも、無理して作り笑顔で丁寧に応対しなければなりません。そんな時のためにベンゾジアゼピンを服用するのです。しかし、近年は「お客様」のモンスター化が進むばかりです。飲食や販売のような業種だけでなく、宅配便などの運送業、役所、学校、医療など、どこにおいても「モンスター」は増え続けています。その手口も悪質で執拗であったりするので、接客する側の緊張は増すばかりです。
パニック障害や社交不安障害のなどの患者さんが、「仕事中・接客中に気分が悪くなったらまずい」と心配され、そういう時に仕方なくベンゾジアゼピンを服用されることも多いのですが、そんな彼らは、このハイパー資本主義社会で働く困難をよく表現していると思います。痛々しく思います。彼らは、どんなモンスター相手でも、また、自身の体調が良くないときでも、「いつも元気で笑顔で応対する」という原則を忠実に実行しているのです。
このような方は、「たまに少しくらい顔がこわばっても、体調崩すことがあってもやっていける、失職するわけでもない」と開き直れると楽になります。パーフェクトを目指さない方がかえって心身の調子は良くなりストレス状況に対応できるものです。しかし、昨今の職場は厳しいので、そういう開き直りを許さない状況もあり、難しいところです。そのために、このタイプの、「仕方なく薬に頼っている」ケースが増えているように思います。私たちの社会がゆとりを取り戻し、皆が健康に働けるようになることを願いますが。
3)愛情欲求や怒りの発散など、本来向精神薬で解決できるものではない欲求や悩みについて向精神薬で対処しているケース:このケースでは、失恋や争い事などによる寂しさ、悲しさ、怒りを紛らすためにベンゾジアゼピンが求められます。「やけ食い」「やけ酒」するように、やたらベンゾジアゼピンを飲むのです。本来は、人に話して慰められたり新たな人間関係を作ったりして解決する問題なのですが、その解決を薬に求めていくと、服薬量が増え続けていきます。多量のベンゾジアゼピンを飲めば、夢見心地になるので、一時的に問題が解決したかのように錯覚するのです。私たちの愛情の原型は母子関係ですが、乳児のように母子が一体化して通じ合ってた世界に戻ったような錯覚を起こすのです。そのように、夢の世界を薬に求めるという点で、このケースは、1)のケースと似てきます。
薬物に依存する側の問題を挙げてきましたが、薬物依存については、処方する私たちの医師の側の問題もあります。一般に「心の病気」と言いますが、精神科・心療内科の疾患は脳を含めた体の病気でもあります。体(脳)が失調を来している時、薬は体に直接作用して効果を発揮するので、ベンゾジアゼピンを含めた向精神薬は有効です。しかし、心の悩みではあるけど病気ではない場合に体(脳)の病気と誤診すると、医者の側が薬物依存を助長することになります。
この点は、実は難しいところです。失恋して苦しんでいる人を見て、うつ病と診断して薬を処方するべき場合もあれば、カウンセリングのみの方がいい場合もあるのです。ある人が心の悩みや苦しみを持っている場合、それはどこまでが心の問題であり、どこからが体の問題であるのかと見極めること、それが私たちの大事な仕事です。薬は使うべき時に適量をきちんと使い、必要が無いときには薬を処方をせずにカウンセリングや療養指導などを行うこと、それは単純なようで奥が深い技術だと思っています。