うつ病の状態になっている人に対し、「頑張れよ」「元気出せよ」などと「励まし」を与えることは厳禁とされています。ほんとうに疲弊している人は「頑張れない」のです。そこに「頑張れ」と言われても更に無理をして心身を傷めるか、「わかってもらえない」孤独感を強めるか、その両方になるのです。
昨今、同じ「うつ」と言っても「新型うつ」とか「非定型うつ病」とか「ディスチミア親和型 」とか、いろいろ言われていますから、この「励まし禁忌」の原則が当てはまらないこともありますが、基本的には、安易な励ましをせず、苦しんでいる人に寄り添ってあげるケアが大事です。もし、「頑張って」と言うことが有効な場合があるならば、うつ病の人自身が励ます人に寄り添ってもらっているという実感を持ち、励ます人を信頼し、何を「頑張る」かという意味を感じられて、その上で「やってみる」程度の気持ちで始められる「頑張り」、という場合でしょう。
私が時々、診療上の言葉遣いとして難しいと感じるのは、「大丈夫」という表現です。診察室で患者さんが「大丈夫です」と話す時や、私が不意に「大丈夫ですか?」と尋ねる時に、疑問や迷い、心配などの気持ちが生じることが時々あります。
もちろんそれが、事故や災害の時に安否確認として「大丈夫?」と確認されて「大丈夫」と答えるような単純な意味合いで患者さんが使われるのならば、それは自然であり、問題はありません。元気に明るく「大丈夫」と答えられる患者さんなら、こちらも安心できます。
しかし、「大丈夫です」と言いながらも顔がこわばっている人もいます。「大丈夫」という割にはずいぶん疲れが見える人もいます。「大丈夫」の表現の中に、本当は「無理をしている」「頑張っている」けれど「心配いただかなくても結構です」との、こちらへの気遣いがうかがわれる時もあります。
ですから、「大丈夫」の表現の中には、「何とかやっている」「少し無理している」「本当は疲れているけど構わないでほしい」という、「無理」の状態が隠れている時があり、また、「大丈夫」と言うその人自身が「自分は疲れてなんかいない、無理なんかしていない、無理なんて言っちゃいけない」と思って自分の疲れを否認し、自分自身に対しての意味をも持って「大丈夫」と言っている可能性があります。
特に「メランコリー型うつ病」と呼ばれるうつ病の方は、そのような、無理を隠した「大丈夫」を言うため、要注意です。いや、うつ病に限らず、そのように周囲に気遣いをし過ぎて皆が本当に良い人だと思う人が、唐突に自殺するようなことがあるので、難しいのです。どういう話の流れで「大丈夫」との言葉が出ているのか、「大丈夫」と答える時の口調や表情を見て、本当に問題ないのか、それともかなりの無理をしているのかを判断していくことが、私たちに必要なセンスになります。
また、私たちが診察室で患者さんに「大丈夫ですか」と尋ねる時も要注意です。これまでのお話からおわかりかと思うのですが、頑張り過ぎているのに無理を自覚していない人に対して「大丈夫ですか」と尋ねることは、「大丈夫ならばいい」=「少々無理をしてもいい」とのメッセージを与えることにもなりかねません。相手を本当に心配する時には、「疲れてるみたいだけど」「無理しているようで心配」「まさか死んでもいいとか思っていないでしょうね」などとストレートに尋ねる方が良いでしょう。(「死んだ方がいい、って思っているかもしれないけど、もしあなたに死なれたら私が辛いから、お願いだからそんなことはしないでね。」と踏み込んで言うことも、時には必要でしょう。)
私たちは、「大丈夫」な状態よりも、「楽」「気持ちがいい」「ゆったり」という状態を心の健康の目安にした方が良いと思います。
日頃「大丈夫」と言っていながらも、急死したり自殺したりした先輩医師、知人や患者さんを思い浮かべる時、彼らの笑顔や清々しさが思い出されながらも、悔しさがこみ上げてきます。
そんな時、私の愛する宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を思い出します。
「雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
ケッシテ瞋ラズ
・・・
イツモシヅカニワラッテヰル
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ」
とあります。
このように、精神的にも肉体的にも完璧なまでに「丈夫」であることを追求した賢治は惜しくも早逝しました。私はそういう人を何人か知っています。彼らを思い浮かべると胸が苦しくなります。そのような人には、「丈夫」「大丈夫」でなくてもいい、他人に弱みを見せたっていい、愚痴を言ってもいい、怒ったっていい、って言いたくなります。