『あした死んでもいい片づけ』(ごんおばちゃま著、興陽館)
この本は、患者さんから教えていただきました。一時は辛い状況にあったけれどずいぶん回復してきた患者さんが、「この本を読んで楽になった」と話され、その患者さんの表情や説明も良かったのですが、題名にも興味がわきました。本屋で手に取った時は薄っぺらくて迷いましたが、結局買いました。結果、買って良かったと思っています。
今、片づけに関する本がたくさんあります。大きな書店では「片づけ」というジャンルでコーナーがあるほどです(私は実は今回初めて知りました)。私は片づけマニアでもなく、そのジャンルには詳しくありません。ただ、臨床上、「片づけ」に関する相談をよく受けます。たとえば、「家の中がぐちゃぐちゃだけど整理できない」、「どうしてもネットで余分な物を買ってしまう」、「親が亡くなった後の片づけが大変」、「不潔と思えると捨ててしまう、触れないので片づけられない」、などなど。
私たちの専門の精神医学や心理学では、片づけ問題は、「注意欠陥多動性障害(ADHD)」による不注意の問題や、「強迫性障害(OCD)」による潔癖性の問題、「ホーディング障害hoarding disorder」 による溜め込みの問題などとされます。片づけが極端にできないか、片づけをし過ぎる、そのどちらか一方に振れると精神科の病名がつけられかねません。
でも、考えてみると、現代の私たち全員にとって、片づけは大きな問題だと思います。なにせ、私たちの周りには「便利」とされる物があふれています。私もつい「便利」な物を買ってしまいます。コーヒーメーカーや電動マッサージの小道具など、「2、3千円でこんなに便利なら」と思ってつい物を買ってしまいます。ダイレクトメール、郵便物や投げ込みチラシなども毎日増えてきています。その結果、家の中が物であふれ、部屋が狭くなります。余分な物に囲まれると、精神衛生が悪くなります。頭の働きも鈍ってしまいます。そういう点から私自身も「片づけた方が良い」と思いながらもついつい日々の忙しさにかこつけて片づけできないことも多いのです。
心理学、認知行動療法の分野でも、片づけの問題は出てきます。しかし、認知行動療法のセルフヘルプ本などで片づけ問題の項を読むと「なぜあなたは片づけられないのか」「『先のばし癖』を治す」などとの見出しが出てきます。そのような表現をする著者は「臨床がわかっていないな」と私は思います。
そのような表現は、「片づけ」「先のばし」=「悪い癖」「早く治すべき」と断定しているようで、実際にそういう文章を読んでみると、片づけられない読者は何か悪いことをしているように思え、読者はダメな気分になってしまいます。
しかし、本書は違います。
まず、片づけという行為を「抜く」と表現します。著者は「抜くとは( 1)譲る 2)売る 3)支援物資にする 4)捨てる )で、家の中から家の外に出すこと」と言います。また、「抜く」にあたっては、「大切なモノを勢いで抜いてしまうと取り返しのつかない悲しい思いをしてしまうこともあるかもしれません。抜きにくいモノはじっくり時間をかけて、本当に必要なのかを見つめていきます。自分の心に正直に『いまは無理、これだけは手放したくない』・・・そう思えばいまは抜かない。」とも説きます。
熟練の精神科医やカウンセラーのみならず、一般の読者もこのような表現の卓越さがわかると思います。
まず、「片づけ」を「抜く」と表現しているのが良いです。「抜く」のは「力み」を「抜く」につながります。日本人は何事においてもつい「道」を追求してしまいがちです。片づけ問題においても「断捨離」する「道」を求めてしまいがちです。「道」の求道者は時々、他人に対して、「こうあるべき」とお仕着せがましくなります。でも、この本の筆者はそんな堅苦しさは無く、片づけを「抜く」と表現し、文字通り読者の力みを抜き、楽に片づけできる方法に誘います。「今が無理ならすぐに片づけしなくて良いんですよ」と伝えられれば読者の力も抜けて、楽に片づけ問題に取り組むことになるでしょう。
(これは、私たちがPTSDなどトラウマのある患者さんに対して、「今無理にトラウマをお話にならなくて結構です」と話すのと共通する配慮です。)
トラウマであっても片づけであっても、何かを悩む人に対して、このようなスタンスで優しく語りかけることは大事です。一般の人のみならず、精神科医や臨床心理士の中にも、つい「良いことは早くすべき」(「善は急げ」)と無意識に押しつける傾向があり、それは誰しもが無意識にしてしまうことですが(禁煙や断酒、ギャンブル断ち、ダイエット、離婚など)、そういう親切の押し売り的な行為は結局治療を停滞させます。
この本に出てくる数々の表現は、初心の心理臨床家に参考になります。いや、一番参考にすべきは、むやみやたらに「症状」という「問題」を取り上げて「診断」し、その「問題解決」をもって「治療」だと誤解している精神科医なのだ、とも思います。
この本の長所は、他にも大事なことがあるので挙げておきます。
「あした死んでもいい」覚悟を説いていることは、大事なポイントです。
私たちが自分の死を意識し、「あした死んでもいい」ように思えると、今ここで生きていること、私たちの人生が充実します。古来より洋の東西で、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」「メメント・モリ(死を忘れるな)」と説かれてきました。私たちはいつ死ぬかもしれないし、運命は全くわかりません。でも、自分がいつかは死ぬことを意識しながら毎日を大事に生きると、世の中が違って見えてきます。人との出会いや運命に感謝の気持ちが出てきます。
そのような「哲学的」な話はえてして抽象論、机上の空論、「浮き世離れ」と受け止められがちですが、日本には良き伝統があって、物事を行う作法、具体的な動作を通して「あした死んでもいい」境地を実感できるような文化があります。たとえば、柔道や剣道、弓道といった武道や、書道や茶道、華道などの芸術で、礼儀や作法を身をもって体験し、その結果として「あした死んでもいい」という境地、悟りに近づくことができるのです。禅の修行でも、理屈で考えたことは否定され、あくまで身をもって体得した悟りが追求されます。
つまり、日本の文化では頭の中の考えた理屈をこねくりまわして「あした死んでもいい」との悟りを得ることよりも、実際に心身を動かしてそのような悟りを得ることが重視され、そのための方策が多々用意されているのです。何も難しい哲学書なんぞ読まなくても、自分の好きなことを通して、例えば運動が好きな人は武道から入って、飾り付けが好きな人は生け花や書道から入って、歌うことや言葉遊びが好きな人は詩吟や俳句から入って、物作りが好きな人は陶芸や木工から入って、それぞれの好みや資質から入りやすい世界を通して悟りを得られる、そういう良き文化がこの日本にはあります。それを「悟り」と言うのが大げさならば、「生きる覚悟」「腹がすわる」心境と言ってもいいと思います。(宮沢賢治が「農民芸術」を称揚したのも(『農民芸術概論綱要』)、そういう日本の伝統文化をわかっていたからだと思います。)
しかし、武道や芸術は、普通は毎日できるものではないし、時間も労力も必要です。一方で、片づけは毎日必要なことです。すぐ目の前にモノはたくさんあります。この本の筆者は、その片づけという行動を一つの修身法として、平たく言えば、心身とも健康に生きるための行為という視点から考えています。
筆者は「なんのために片づけをするのか」と問われれば、「幸せになるために」と単純明快に答えます。そして、筆者の言う「片づけ」はモノの整理に限らず、普段の心の持ち方、人間関係のあり方に及びます。
著者は言います、
「では、心のありようが未来を決めるのであれば、どうしたらいいのでしょう。・・・人のことを悪く思わない。『あの子がこうしたから』あるいは『こうしなかったから』と、不平や陰口を言わないことです。うれしい、ありがたいと思っていると自然にいい人間関係になります。人の悪いところばかり見ていると不平不満が出ます。そして不機嫌になります。」
また、時間の使い方については、「その日暮らしをしない」の項では、
「行き当たりばったりでその日暮らしをしないということです。・・・『お買い物の途中で友達とばったり会ったのよ。つい長話してしまったわ』とか、・・・それにいちいち考えなしに対応していたのではあっという間に時間をとられ『もうお昼?』となってしまいます。それでは自分がありません。・・・その日暮らしは大きな時間の損失です。まず、今日の自分はどうしたいのか、なにを優先するのかをしっかり考えることが大事です。」と語ります。このような話は、一見他人に対してわがままに振る舞うように聞こえますが、著者は、
「人は損得の物差しでおつきあいしがちですが、気持ちでおつきあいを考えたほうが実のあるおつきあいができます。大切な人との時間はとても有意義でいい時間です。」
と語り、決して他人を大事にしないわけではないことがわかります。
筆者はそのように人間関係を「片づけ」し、「あした死んでもいい」生き方を追求しているし、その実践の方法・コツがあちこちに書かれています。哲学的、自覚的な生き方を追求しながらも、あくまで語りは優しいし、具体的です。
世の中に心理学や精神医学関係の本で読んでも仕方ない本はあふれていますが、
(おっと、私も「不平や陰口」が出てしまいました。反省。)
本書はそういう分野と異なりながらも、読者の心が整理されていく、広い意味でのカウンセリング、セルフヘルプ本の良書だと思います。